PARCO&CUBE produce2024 ミュージカル「ダブリンの鐘つきカビ人間」感想②

ミュージカル「ダブリンの鐘つきカビ人間」をCOOL JAPAN PARK OSAKA WWホールでも観劇しました。

7月上旬に東京国際フォーラムCでも観劇して一度感想を書いたのですが、再び観劇してみて、新たに感じた事や気付いた事があって、それも色褪せないうちに書き留めておきたくて、感想ブログを書くことにしました。

 

 

 

拙い文章になるかと思いますが、読んでいただけたら嬉しいです。

 

物語の内容等は黒文字、自分の感想や考察は文字にして書いていきます。

前回感想を書いた時に、物語のあらすじや内容、登場人物について大まかに書いたので、物語を知らない方は、前回の記事を読んでいただけたら幸いです。

 

kansou0504.hatenadiary.jp

 

 

•「その分見えないものが見える」

 

カビ人間がおさえの罪を庇い、牢屋で拷問を受け、ボロボロの状態で解放された後、ジジイ(おさえの父)と出会い、2人きりで話す場面。

 

ひと雨きそうだな。と空を見上げるジジイに、カビ人間は凄いな…目が見えないのに。と言う。

その言葉に対してジジイは、その分見えないものが見える。と答える。

 

この場面で

•ジジイとカビ人間は奇病が流行る前はいつも一緒に居た事

•カビ人間は奇病のせいで、奇病に罹る前の記憶がどんどん失われている事

•ジジイは悪い奴に騙されて薬を飲んだせいで、盲目になってしまった事

が明らかになる。

 

さらに、奇病に罹る前の記憶がほとんど無いカビ人間は、自分がジジイを騙して薬を飲ませたのかもしれないと思い、その悪い奴って…僕?とジジイに聞くが、ジジイはもっともっと醜い奴だったよ。と答える。

 

 

初めて舞台を観た時から「その分(目が見えない分)見えないものが見える。」というジジイの台詞が印象的でした。

そして、東京公演を観終わってから"見えないものが見える"って何だろう?と考えていたのですが、再び観劇してみて、ジジイの優しさと寛容さは、「きっと"見えないものが見える"からこそあるんじゃないかな。」というふうに思いました。

 

 

 

人にはいろんな側面がある。

ジジイだったら、おさえのお父さんという側面があったり、カビ人間の古い友人という側面があったり、ダブリンの一市民という側面があったり。私だったら、職場に行けば看護師という側面があったり、実家に帰れば娘という側面があったり。

そして、ダブリンの市民から見ればジジイは"奇病に罹った一市民"なのかもしれないけれど、おさえから見ればジジイは"かけがえのない家族の一人"だ。

 

生きていると正直嫌いだなと思う人、相容れないなと思う人に必ず出会う。

でも、私にとって嫌いな人でも、他の誰かにとっては、その嫌いな人が、かけがえのない家族だったり恋人だったり、大切な存在なのかもしれない。私はその人と「馬が合わないな。」と感じていても、他の誰かにとっては「その人がいないと生きていけない。」と、感じさせるような尊い空間や時間があるのかもしれない。

 

"見えないものが見える"

ジジイにはもしかしたら、相手を差別したり、傷つけたりすることで、相手だけじゃなくて、相手の家族や恋人など"相手の向こう側にいる人"までも、心を痛め悲しい思いをするかもしれない。

"相手だけじゃなくて相手の向こう側"まで見えているのではないかなと思いました。

 

そして、「盲目にさせてしまったのは自分なのか?」というカビ人間の問いに、ジジイは「もっともっと醜い奴だったよ。」と答える台詞もありますが、

ジジイは、国籍や人種、経歴、奇病に罹っているとか罹っていないとか、そういった枠組みを取り払って、「その人をただただ"その人"として見ているのかもしれないな。」とも思いました。

だからカビ人間の事も、自分を盲目にさせた人なのかもしれないけれど、今は、娘を命懸けで助けてくれて、鐘つきの仕事を一生懸命頑張っている人だと考えているのかなって。

 

でも…もし自分が誰かに騙されて盲目になってしまったら…"自分を騙した人の向こう側にいる人"の事まで考える心の余裕は無いかもしれない。相手がどんなに反省していたとしても、自分を盲目にさせた事を許して、今の相手の姿だけを見る事はできないかもしれない。

 

そして、いじめとか虐待とかSNSでの誹謗中傷とか、悲しいニュースは毎日絶えずあるし、今も戦争をしている国がある。

 

ジジイのように、偏見や差別を持たず、"相手だけじゃなくて相手の向こう側"まで見えるくらい優しさや寛容さを持つには、どうしたら良いんだろう。どう努力すれば持てるようになれるのだろう。考えれば考えるほど難しいです。

 

さらに、「ジジイを盲目にさせた犯人はカビ人間かもしれない」という設定で、話を進めてきましたが、犯人が誰なのか明らかにはなっていないのと、盲目にさせた犯人の動機もわからないのでそれも知りたいです。

 

 

 

 

 

•ピクニックに行きたくなるような大雨

 

2人がお互いの病を理解し合って心を通わし、少し遠くなっていたおさえの笑顔が戻ってくる場面。

 

私はこの場面が一番好きです。

大切に思う人が"1分でも1秒でも「幸せだ。」って思える時間を作れるって、最高に尊い事だなと感じて、大阪公演でも涙が止まりませんでした。

そして、カビ人間の中で、鐘つきの仕事以外に、おさえが1秒でも「幸せだ。」と思える時間を作る事も、"生きる意味"の一つになったんじゃないかなとも思いました。

 

 

この場面でカビ人間がおさえに対して、僕嬉しかったんだ。君に"素敵だ"って言われて。僕本当に嬉しかったんだ。大丈夫だよ、まだ嬉しいままだから。って言う台詞があるんだけど、おさえがかけてくれた"素敵だ"という言葉で、カビ人間はきっと心が救われたんだろうなと感じました。

 

以前の東京公演の感想でも書いたのですが、おさえと出逢う前のカビ人間は「市民にお昼の時間を知らせるための鐘を鳴らす」という自分の"生きる意味"を見つけて、前向きに生きようとしながらも、心のどこかでは「自分は醜い姿だから。」と思っている自分も居たと思うんです。

 

おさえは、教会の場面では本心としてこの言葉を言っていなかったけれど、あの時のカビ人間にとっては、何ものにも代え難い、今も色褪せずあの時のその色のままで、この言葉が心に残っているんじゃないかなって。

自分が後ろ向きになりそうな時、今までは「自分は醜い姿だから。」と思っているダメな自分を殴り殺して、その度に踏ん張るような形で鼓舞していたけれど、おさえと出逢ってからは、きっとおさえがくれたこの言葉を思い出して、前向きになれていたんじゃないのかなと思いました。

 

 

 

まるで私たちは霧の中 あなたはひとりきりで何を夢見ているの?

声に出しても 言葉なんて君に(あなたに)届かない あなたのいない一瞬 雨の中

 

「ピクニックに行きたくなるような大雨」の聡と真奈美のパートの歌詞なんだけど、カビ人間とおさえのパートとはとても対照的に感じました。

同じ大雨の中でも、カビ人間とおさえは大雨すら楽しんでいる感じがして。

大雨の中、2人きりで雨宿りしながら話したあの時間は、いつまでも2人だけの大切な思い出で、こんにちは。って別れて1人きりになった後も、「大雨なんて関係ない!」っと思えるくらい幸せな気持ちでいっぱいだったんだろうなと思います。

 

一方聡と真奈美は、カビ人間とおさえと同じ大雨の中でも、冷たくて強い大雨に打たれて、憂鬱で寂しい感じがして。

5年半一緒にいた分、お互いの嫌な部分が嫌でも目につくようになって、気がついたら些細な事で喧嘩するようになって、2人とも優しさや思いやり、温もりをどこかに置き去りにしてしまっているように思いました。

そして、些細な喧嘩がどんどん積み重なっていって「どうせ言ったところでわかってもらえない。」「また言い合いになる。」と、いつからか心を閉ざし、声に出しても言葉が心に届かなくなり、お互いが何を考えているのかとか、何を思っているのかとか、見えなくなってしまったのかなと思いました。

 

 

 

 

 

•戦士が神父と神父の手下を殺す場面

 

東京公演で観た時と大阪公演で観た時と、感じ方が1番変わった場面かもしれないです。

東京公演で観た時の戦士のイメージは、「無鉄砲な人だな。」というイメージだったんですが、再び観劇してこの場面を見て、戦士の言葉や行動の根底には常に、おさえへの愛情や優しさ、一途な思いが強く流れているような気がして、そう考えた途端、正義や愛のために他の誰かを傷つける戦士を、どういう気持ちで観れば良いのか、心の中がグチャグチャになってわからなくなりました。

森の中、真奈美や聡と出会った時も、賢者と出会った時も、戦士はむやみに斬り殺したり、傷つけたりしなかったから。

 

本当の意味での正義って何だろう?本当の意味での優しさって何だろう?って。

 

戦士は、「聡と真奈美は邪教団の密使で、自分達の私利私欲のためポーグマホーンを手に入れようとしている。」と神父の流した嘘の情報に踊らされて、結局神父とその手下2人を殺めてしまったわけだけど、"誰かの言う正しさに流されて誰かを傷つける"って、今のこの世の中でも沢山起こっている事だなと思いました。

 

 

 

 

 

•奇跡なんてクソくらえ

 

『死んじまえ、カビ人間。

地獄に堕ちろ、カビ人間。

お前は醜い悪魔の僕。

お前を迎え入れる世界など、この世の何処にもない。

皆はお前を素晴らしい男だと言う。

皆はお前に勝る者はいないと言う。

皆がお前を慕い、皆がお前を愛する。

だが、よく聞くがいい、カビ人間。

私は...この私だけは…お前を心から憎む。

私だけはお前が大嫌いなの。

奇跡なんてクソくらえ、ポーグマホーン。』

 

「市民の言う、"カビ人間が火をつけた犯人だ"という正しさや圧力に流されず、振り回されない。こんな事あってはならない。

自分の言葉も、感情も、この病も、全部全部他の誰のものでもない。自分だけのものだ。」

という、おさえの矜持と生き様が真っ直ぐ伝わってきて、カビ人間への混じり気のない一途な思いが溢れていて、胸が熱くなって、涙が止まらなかったです。

 

カビ人間もおさえも、最期の最期まで自分らしく、そして、自分を愛し隣にいる大切な人を愛し、街中の人々の幸せを本気で願っていたんだと思います。

 

 

 

 

•愛はいつも間違う

 

本当のことを教えて 霧の中探すように 本当のことは教えない いつだって 言葉は雨

 

ここの歌詞が、東京公演の時からとても印象に残っていて。

東京公演に入った直後は、"言葉は雨"の意味がはっきりとわからなかったのですが、再び観劇して、

聡と真奈美は本当の事は胸の奥に秘めたまま、思いとは裏腹な態度を取って、喧嘩して、お互い投げつけた言葉は、曇っていて本音の見えない、冷たく寂しく感じる言葉だったから、"言葉は雨"なのかなというふうに考えました。

 

はやく消えて 嫌い 大嫌い 」

あなたのことはもう覚えてない 覚えてない 覚えてない 今覚えていない

 

ここでカビ人間とおさえは抱き合いながら歌うのですが、

言葉には大きな力もあるけれど、"言葉の限界"もあるのかなって感じました。

誰かがただそばにいてくれて、手を握ってくれたり、抱きしめてくれたりするだけで、無数の言葉の代わりになる。"言葉の限界"を超えるパワーがあると感じました。

東京公演の感想でも書きましたが、命に代えられるものはもちろん何も無いけれど、2人が触れられるようになったのは、唯一の救いなのかなと思いました。

 

 

 

 

 

•聡と真奈美の結末

 

東京公演の感想を読んでくださった方が、コメントで「洋服に血飛沫がついてボーグマホーンに2本ラインが引かれます。」と教えてくださり、注目して観たのですが、確かに洋服に血液が付いていて、ポーグマホーンに2本ラインが引かれていました。

やはり、老人(市長)はポーグマホーンによって不死身の身体になってしまって、今度は次の奇跡を起こして(ポーグマホーンでまた1000人斬る)、死のうとしている。

奇跡を起こすため森へ迷い込んだ人々を斬り殺していて、真奈美と聡もその1000人のうちの2人で、老人(市長)によって殺されたのかな?と思っています。真実が気になります。

 

 

 

 

東京公演と大阪公演とで、お芝居の間合いや、台詞の言い回し、歌い方、アドリブなど違う感じがして「同じ公演だからといって、今日観た公演と同じ瞬間が訪れることは二度と無い。」「替えのきかない特別な空間なんだ。」と凄く感動して、舞台がもっと大好きになりました。

そして何より、物語も、役者さん一人一人のお芝居や歌も、ケルト音楽も全部全部素晴らしくて、いつか絶対に再演して欲しいです!

サントラとDVDも欲しいです!

 

 

 

最後まで拙い感想を読んでくださって、本当にありがとうございました。

PARCO&CUBE produce2024 ミュージカル「ダブリンの鐘つきカビ人間」感想

東京国際フォーラムCにて上演されたミュージカル「ダブリンの鐘つきカビ人間」を観劇しました。

 

この場面を観た時この歌を聴いた時どう思ったかとか、どんな歌と共にストーリーが展開されていったのかとか、どうしても感想に書き留めておきたくて、日が経ってどんどん忘れていくのが怖くて、不慣れながらもはてなブログに感想を書いてみました。

 

拙い文章になるかと思いますが、読んでいただけたら嬉しいです。

物語の内容等は黒文字、自分の感想や考察は文字にして書いていきます。

※この先ネタバレとなります。ネタバレを避けている方はこの先の閲覧をご遠慮ください。

 

 

 

物語のあらすじとしては…

 

舞台となるのは、とある山の中。深い霧が立ち込めていて、「カビ人形が教会を見つけた」という内容の歌詞の歌が、霧の中から聞こえてくる。

旅行中の聡と真奈美(※交際期間5年半。最近は関係が上手くいかず、旅行を機に別れようと決めている。)は、この不思議で少し不気味な歌を聞きながら、霧の中で立ち往生してしまい、ある老人の住む洋館に一夜の宿を求める。

洋館内には、「ポーグマホーン」と呼ばれる剣が飾られており、聡はその剣が気になって手に取り、真奈美は霧の中で聞いた歌を口ずさむ。

そんな2人の様子を見た老人は、聡と真奈美へ「どこでその歌を聞いたのか」と話しかけ、さらに「昔はここに街があり、自分は市長をしていた。」と話を切り出す。そして、突然大きな鐘の音が山中に響き渡る。

その鐘の音が鳴った事をきっかけに、老人は「ポーグマホーン」と鐘の音にまつわる街の話を2人にし始める。気がつくと2人は、取り憑かれたようにその老人の話にのめり込み、その話の世界線へと入り込んでしまう。

 

そしてその話の世界線というのが、カビ人間とおさえが住むダブリンという街。カビ人間やおさえをはじめとする市民は、奇妙な病におかされており、

カビ人間は、病に罹る前は容姿端麗で心が歪んでいたが、病に罹ってからは、カビが生えた醜い容姿になってしまった。しかし、醜い容姿と引き換えに純粋で善良な心を持ち、病に罹る前の記憶は失われてしまう。

おさえは、「思っている事と反対の言葉しか発せられない病」に罹ってしまった。病に罹る前は明るく無邪気な女の子だったが、病に罹ってしまってからは、人前で話す事に対して臆病になってしまう。

ジジイ(おさえの父)は盲目で36歳。しかし病に罹り、36歳とは思えない老いた姿になってしまった。

おさえのフィアンセの戦士は、「会話の中にいちいち知らない人の名前が出てくる」という病に罹ってしまう。

これらの奇病を治すためには「ポーグマホーン」と呼ばれる"1000人斬ると奇跡が起こる伝説の剣"が必要で、正義感が強く明朗快活な真奈美は、慎重派で心配性で尻込みをする聡を引っ張って、「ポーグマホーン」を探す事となる。

 

物語のあらすじとしてはこんな感じで、ここからは物語の流れに沿って、個人的に印象に残っている場面について感想を話していこうと思います。

 

 

 

 

 

 

•運命を愛せよ

 

歌詞をまだ一言一句覚えていないけど、歌詞の内容としては、

病気に罹る前は、この鐘つき堂から見る景色はただの景色としか感じなかった。でも今はこの景色を愛している。病におかされて毎晩泣いていた日もあったけれど、今はこの状況に心から感謝している。そして、何故か心と身体を変えたこの病も愛している。いう内容の歌詞だったと思う。

(この歌の歌詞カードが欲しい。)

 

曲調は明るくゆったりとしているのに、歌詞の内容はとても力強くて逞しい。

この歌を聴いて、歌っている時のカビ人間の笑顔を見て、カビ人間はとても逞しい人なのかもしれないと思いました。

病におかされてしまったというネガティヴな状況に蓋をして、目を背けるのでは無く、容姿が醜くなってしまった自分と向き合って、何度踏み潰されても泥臭く生きようと決めて、今のカビ人間があるのではないかなと感じました。

自分と向き合う中で、泣いた日も沢山あったけれど、その中で『市民にお昼の時間を知らせるための鐘を鳴らす』という"自分の生きる意味"を見つけて、毎日懸命に鐘を鳴らしているんだろうなと思いました。

 

 

 

•カビ人間とおさえが初めて出逢う場面

 

四葉のクローバーを探しているおさえに、カビ人間が後ろから声をかけ、クローバーが咲いている場所を教えてあげる。しかしおさえは、後ろを振り返りカビ人間の容姿を見た瞬間怖くなって逃げてしまう。

その後、おさえのフィアンセの戦士が偶然その現場を目撃し、お前に話しかけられて嬉しい奴など一人もいない。」「次に私のフィアンセに話しかけているところを見かけたら、お前の命は無いものと思え。と忠告する。

さらにカビ人間は、聡ともここで初めて接触するが、聡がさっきの子に、(クローバーを)あげるの?と聞いてカビ人間が無理なんだ…とクローバーを摘んだ瞬間、クローバーは腐ってしまう。

 

この場面、おさえに怯えられてしまうのも、戦士から「お前に話しかけられて嬉しい奴など一人もいない。」と心無いことを言われているのも辛かった。

そしてここで初めて、『カビ人間が生きているものに触れると、その生きているものが腐ってしまう』というのがわかるんだけど、きれいだなって感じたものや、好きなもの、好きな人に『触れたい』というごく当たり前の事さえできない様子が、とてももどかしくて切なくなりました。

 

 

 

四葉のクローバー

 

奇病がいつか治ることを願って、市民が街の教会でお祈りをする場面。この教会の場面で、カビ人間はおさえと再会する。

おさえが教会の懺悔室で懺悔をしている間に、カビ人間が教会へ入ってきてお祈りをするが、神父の片棒を担ぐ市民に外側から鍵をかけられ、閉じ込められ、懺悔室から出てきたおさえとカビ人間は2人きりになる。

ちなみに、教会の神父と市長は結託しており、お祈りをする市民から"献金"と言ってお金を巻き上げたり、"病税"という税金を納めさせたりして金儲けをしている。ポーグマホーンを聡と真奈美が手に入れ奇跡を起こし、市民の奇病が治ってしまうと金儲けができなくなるため、おさえのフィアンセである戦士に「聡と真奈美は邪教団の一味であり、自分達の私利私欲のためポーグマホーンを手に入れようとしている。」と嘘の情報を流し、聡と真奈美より先にポーグマホーンを手に入れるようそそのかす。

 

この場面のカビ人間の声色と表情と「四葉のクローバー」が忘れられない。

お願いだから来て!」「私に触って!と言うおさえに対して、どうすれば良いか困惑している気持ちと『醜い容姿になってから初めて自分を受け入れてくれた人に出逢えた。』という嬉しい気持ちが、カビ人間の表情や声色から手に取るように伝わってきました。

その後、カビ人間はおさえの頭に触れて、おさえの髪飾りが腐って、ごめんなさい!でもなんだろう…とっても柔らかかった。とってもあったかかったよ。と言うんだけど、誰かの温もりを感じたカビ人間の瞳がとても澄んでいて、でもこの時はまだおさえの病を知らないから、歯痒くて切なかったです。

 

「本当のことを教えて 僕は醜い?」

「本当のことしか言えないわ あなたは美しい」

 

このやり取りがあって、カビ人間とおさえは「四葉のクローバー」という歌を歌うんだけど、本当のことを教えて 僕は醜い?というフレーズに胸が締め付けられた。

カビ人間は、病に罹ってその容姿のせいで、ずっと街の人々に疎まれ、1人きりで生きてきた。きっと、心の中で「自分は醜い姿だから。」と言い聞かせている自分も居て、そんなダメな自分を殴り殺して、その度に踏ん張るような形で今まで自分を鼓舞してきたのかなと感じました。

そして、苦しそうに本当の事しか言えないわ あなたは美しいと歌うおさえも、カビ人間をただ避けたいだけじゃなくて、思っている事と反対の事しか言えない自分が、とにかくもどかしくて嫌で仕方なかったのかなと思いました。

 

突然患ってしまった病と共に生きる事、そんな自分を受け入れて愛することってすごく難しい事かもしれない。私も、生きていて「なんでこんな失敗をしてしまったんだろう。」とか、「もう少し要領良く行動できたら良いのに。」とか、自分が嫌になることが多々あるから偉そうに言えない。

けれど、いつかカビ人間とおさえが、病のせいで症状が出てしまっている自分も全部ひっくるめて、少しでも自分の事を愛してくれたら、少しでも自分らしく生きてくれたら良いなと思いました。そして、カビ人間とおさえが、お互いの病を理解し合って認め合って、いつかお互いがお互いを『愛おしい』と思いながら、この歌をまた歌って欲しいと感じました。

 

 

 

•ピクニックに行きたくなるような大雨

 

教会で会った後、カビ人間はおさえが好きな花をスコップで植木鉢へ移し、おさえの家へ持って会いに行く。おさえに(家に)上がってきて。と言われ家へ上がるが、おさえは反対の言葉しか言えないもどかしさから泣いてしまい、ジジイ(おさえの父)に帰るよう促され、植木鉢を託しその場を後にする。その後、おさえはもどかしさと苛立ちが募り、家の2階から植木鉢を投げるが、その植木鉢が偶然街の親衛隊長の頭部に直撃。親衛隊長は気がおかしくなってしまう。街は騒然とし、植木鉢を落とした犯人探しが始まるが、カビ人間が「自分が犯人だ」とおさえの罪を庇う。その後、カビ人間は牢屋で酷い拷問に遭うが、死刑は免れ、ボロボロの状態で解放される。

解放された後ジジイと再会し、さらにおさえとも再会する。

 

ちなみに牢屋にいる間、隣の牢屋にいた人からおさえの病について話を聞き、カビ人間はようやくおさえが「思っている事と反対の言葉しか発せられない病」に罹っている事を知る。

 

前置きが長くなってしまいましたが、「ピクニックに行きたくなるような大雨」は、ボロボロの状態で解放されたカビ人間とおさえが、土砂降りの雨の中再会し歌う歌です。

 

 

この場面のおさえとカビ人間のやり取りがとても好きです。

おさえは、ずっと一緒に生活をしているジジイ(おさえの父)や、フィアンセの戦士の前ですらあまり言葉を発しなかったのに、カビ人間の前ではとっても意地悪。」「ぶん殴ってやりたい。と、思いとは裏腹な罵倒の言葉が次々と出てくる。きっと、病に罹る前はこんな感じで、ジジイや戦士の前でも無邪気に話をしていたのかもしれないなと思いました。さらに、思いとは裏腹な言葉しか言えない自分に寄り添ってくれるカビ人間に出逢えて、とても嬉しかったんだろうなとも思いました。

そして、土砂降りの雨を見て、おさえはすごく良い天気ね。と咄嗟に反対の言葉を言ってどぎまぎするんだけど、そんなおさえの言葉をそうだね。良い天気だ。雲一つないピクニックにでも行きたくなるような大雨だ!と笑顔で答えるカビ人間が、とても愛らしくて、優しさで溢れているように見えました。

舞台の序盤で戦士は、思いと反対の言葉しか言えないおさえに対しておさえちゃん、これからは練習して、こっちの色を聞かれたらこの色、この色を聞かれたらこっち。(※台詞一言一句合ってるか自信ないです。間違えていたらすみません。)と、反対の言葉を言わない練習をするように促していたけれど、カビ人間はおさえの言葉を最後まで聞いて、頭の中で一生懸命反対に変換して大丈夫。君と話すのに慣れてきた。と優しく受け止めていた。

カビ人間の目に映っていた今までのおさえは、思いとは裏腹な言葉を、苦しそうに泣きながら言うおさえだったから、笑顔を一つでも増やしたかったんだろうな、ちゃんと話がしたかったんだろうな、そう思うと涙が止まりませんでした。そして、「反対の言葉しか言えない」おさえの痛みはなかなか癒えないし消えないけれど、カビ人間の優しさがその痛みを覆っているように感じました。

 

「誰にも愛されずにいたんだ」

「誰にも本当のこと言えなかった」

 

カビ人間とおさえがさようなら。」「こんにちは。とお別れをした後、「ピクニックに行きたくなるような大雨」を歌うんだけど、カビ人間の誰にも愛されずにいたんだとおさえの誰にも本当のこと言えなかったという歌詞が胸に刺さる。

四葉のクローバー」を聴いた時に懸けた『お互いの病を理解し合って認め合って、いつかお互いがお互いを愛おしいと思いながらこの歌をまた歌って欲しい。』っていう願いが、やっと叶った気がして。そしてこの幸せがずっと続いてくれたら良いなとも思いました。

 

 

 

•中村さんとザリガニの決闘

 

ポーグマホーンを探しに森へ行く途中、聡がかっこよくなりたくて願ってみたと、ザリガニの格好をして出てくるんだけど、それが面白くて笑

その後、ポーグマホーンを聡と真奈美より先に手に入れようとしている戦士と、戦士の馬である中村さん(馬の被り物の下から人間の脚が見えており二足歩行である。デカい。)が登場して、決闘をするんだけど、中村さんvs聡ザリガニの動きがとにかく可愛くて面白い笑

 

決闘をして、戦士は、聡と真奈美が邪教団の一味では無い事、神父にそそのかされていた事がわかって、教会での火事が起きた後3人は力を合わせてポーグマホーンを探しに森へ出かけます。

 

 

 

•教会での火事

 

市長は、1幕ではまだ病に罹ってはいなかったが、2幕で「セント・スティーブンズ・ディの正午10分前の鐘の音を聞くと死ぬ」という奇病に罹ってしまう。

火事が起きる前、神父と市長はカビ人間の元を訪れ「セント・スティーブンズ・ディの正午10分前の鐘を鳴らさないで欲しい。」と頼みに行くが、カビ人間は「与えられた仕事を忘れない事は大事だから。」「鐘が鳴らないとお昼が来る事を誰もわからないから。」という理由で断ってしまう。

そこで市長と神父は、教会に火をつけその火をつけた犯人をカビ人間にさせる。そして、神父の片棒を担ぐ市民の天使に「カビ人間が火をつけた犯人だ。」と街中の人々に嘘の情報を流すよう指示を出し、天使はその指示に従い実行する。

たちまち街中にカビ人間が犯人だという嘘の情報が行き渡る。おさえは、市民達へ必死でカビ人間は犯人では無いと伝えようとするが、病のせいでやったのはカビ人間よ!」「カビ人間を殺して!と思いとは反対の言葉を言ってしまう。

市民全員は一致団結しカビ人間を捜索する。

 

この場面で市民が歌う歌が「預言歌」っていう歌だと思うんだけど(パンフレット読んだ感じだと)、市民全員が取り憑かれたようにこの歌を歌いながら、カビ人間を捜索していて、"民意“って時として凄く怖いものだなと感じました。

 

確かに、カビ人間は容姿は醜いし、皆んなの嫌われ者。病に罹る前も、容姿端麗ではあったが心は醜く金にがめつい人だった。

だからって、カビ人間が火をつけている所を、ちゃんとこの目で見ている人は誰もいないけど、犯人にして良いのか?

カビ人間が火をつけた確固たる証拠もないけど、犯人にして良いのか?

証拠も証人ももう関係ない。皆んな犯人はカビ人間だってとりあえず言ってるし、容姿は醜いし、カビ人間になる前も金にがめつくて嫌な奴だったし、私も皆んなも大嫌いだから犯人だ。街中の皆んなが賛成している事は全て正しい。これが街の人達の民意だから全て正しい。

 

本当にこれで良いのでしょうか?

この場面の市民の台詞でカビ人間は悪魔だ。という台詞があったけど、本当の悪魔はカビ人間じゃなくてこの"暴走した民意"な気がします。

 

 

 

•おさえがカビ人間の鐘つきの仕事を止めに行く場面

 

カビ人間が犯人だと、街中の人々が捜索しているのを知ったおさえは、カビ人間の元へ行き、教会の火事の犯人に仕立て上げられている事、鐘つきの仕事はせず今すぐ逃げる事を必死で伝える。しかしカビ人間は、僕は嫌われ者だからね…街中の皆んなが僕を嫌ってる。でもね、おさえちゃん。この街の人たちは僕の鐘を聞いてお昼を知る。僕が居なきゃ皆んなの目の前をお昼が通り過ぎちゃうんだ。」「鐘をつかない僕はこの街にいる必要がないから。(※台詞一言一句合っているか自信無いです。間違えていたらすみません。)と言って、鐘をつきに行ってしまう。

 

おさえが必死で、言葉にして伝えているところに胸が熱くなるし、鐘をつきに行こうとするカビ人間を制止しようと触れた瞬間、身体が腐りそうになるところは切なくなる。その後のカビ人間がおさえを抱きしめようとするけど、触れたらまた腐らせてしまうかもしれないと、手を引っ込めるところも切ない。

寂しい時、不安な時、愛おしいと思った時、愛する人に触れたくても触れられないってどんなに苦しいんだろう。

 

この場面の最後、カビ人間は僕は…僕はとってもおさえちゃんの事好きだな。と言って鐘をつきに行ってしまうんだけれど、おさえへの混じり気のない真っ直ぐな思いを感じたし、自分の身を投げ打ってでも鐘つき堂へ向かう覚悟みたいなものも感じました。

 

 

 

カビ人間が犯人に仕立てあげられてから、運命を変えるため聡と真奈美はポーグマホーンを探しに森へ行きます。その道中、戦士と再会し3人で力を合わせて、無事ポーグマホーンを手に入れる事ができるのですが、戦士はポーグマホーンを持って、自分をそそのかした神父を殺しに行きます。

そこでおさえと再会を果たし、おさえの目の前で致命傷を負いながらも神父の手下と神父を殺し、999人斬ったことになるのですが、おさえは戦士からポーグマホーンを奪い、鐘つき堂へと向かいます。

(※文字数が大変なことになってきているので、森でのクイズの場面は端折ります。すみません。)

 

 

 

•奇跡なんてクソくらえ

 

鐘つき堂へ行くと、既に街中の人々がカビ人間を蔑む目で見つめ殺そうとしていた。

おさえは、一生懸命思いを言葉にして街中の人に訴えようとするけれど、病のせいでお願い!彼を殺して!と思いとは裏腹な言葉しか出てこない。

植木鉢が頭に直撃して気が狂い、奇病に罹ってしまった親衛隊長は、おさえの言葉をそのまま受け止め、銃口をカビ人間へ向け発砲する。

カビ人間は深い傷を負いながらも、鐘つき堂の階段を這いつくばってあがっていく。

 

この時のカビ人間は、神様はきっと味方してくれると信じながら、自分が自分であるために、誇りある生き方をするために、おさえと幸せで平穏な日々を送るために、目を背けたくなるような現実と向き合い、深い傷を負う覚悟で前に進んでいかなければならないと、一段一段這いつくばりながらのぼっていたんだと思います。

愛することは何でもかんでも受け入れるだけじゃない。愛することに戦うことを見つけて、鐘をつきに行ったんじゃないのかなと思いました。

 

死んじまえカビ人間、地獄に堕ちろカビ人間。

私はこの私だけは、お前を心から憎む。

奇跡の剣を持ちながら、おさえはカビ人間の元へ一歩一歩踏みしめながら近づいてこの台詞を言うんだけど、思いが強すぎるあまり口に出る言葉は尖っていて胸が苦しくなる。でもカビ人間への愛は痛いほど伝わってきて、カビ人間も真っ直ぐおさえを見つめて受け止めているから、心の中がグチャグチャになって、涙が止まらなかった。

 

そして1幕の最初の方で歌った「運命を愛せよ」を歌うんだけど、1幕とはまた違う「運命を愛せよ」だった。

1幕のカビ人間は、どこか自分を奮い立たせるような鼓舞するような感じで歌っていた気がするんだけど、この時のカビ人間は、おさえというかけがえのない人を愛して、さらに、奇病に罹って醜い姿になってしまった自分も、悲しみや痛みや辛ささえも愛して歌っているような気がして。1幕よりも、より力強くて逞しくて愛に満ち溢れているように感じたし、自分を愛し隣の人を愛することの大切さも感じました。

 

「運命を愛せよ」を歌った後、おさえは奇跡なんてクソくらえ!と言い、剣を自分の方へ向けて刺し、それと同時にカビ人間も親衛隊長からの最後の一撃を受ける。

 

おさえ自らが1000人目となり、市民全員の病は治るという奇跡が起きた。

 

奇跡なんてクソくらえ!

おさえは思っている事と反対の言葉しか話せないから、きっと「奇跡よ!起こって!」って言いたかったのかな。

 

でも、どうしてもクソくらえ!って思ってしまうくらい悲しい奇跡だった。

ポーグマホーンは、"1000人斬ると奇跡が起こる"剣だけど、"誰かの犠牲の裏に誰かの幸福が成り立つような剣"を奇跡の剣だなんて呼びたくない。

昨日美味しいなと思いながら食べたハンバーグは、その動物が犠牲になったから食べられているし、どこかの企業が成功すれば、別の企業が失敗するし、誰かが受験に受かれば、誰かが受験に落ちるし、"誰かの犠牲の裏に誰かの幸福が成り立つこと"ってこの世の中ありふれているけれど、"誰しも幸せになって良い権利"だってきっとあるはずで。

お花畑みたいな事を言っているのはわかっているけど、おさえやカビ人間、街中の皆んなが、幸せで平和な日々を生きる未来があったって良いのに、どうしてカビ人間とおさえは死なないとならないのだろうと、涙が止まりませんでした。カビ人間とおさえはきっと『死にたい』とは思っていなかったと思うんです。

それに、カビ人間やおさえだけじゃなくて、街の人々皆んなが各々の容姿とか考え方とか、個性を理解し合って尊重し合っていれば、奇病を治す事はできなかったかもしれないけれど、奇病に罹っていても、"生きづらさ"を感じない街になっていたかもしれない。皆んなで美味しいお昼ご飯を食べられていたかもしれない。誰かを殺したり、憎しみ合うことでしか前に進めない状況にはならなかったかもしれない。この状況を変えるために奇跡の剣を使うこともなかったかもしれない。

 

 

 

•愛はいつも間違う

 

真奈美が道に迷って、霧の中手を握って欲しかった。と泣きながら本当の事を打ち明ける。聡もまた俺も何回も手を握ろうと思ってた。でもできなかった…。もう絶対離さない。と本当の事を打ち明け、手を握る。

そして「愛はいつも間違う」を歌う。(※台詞一言一句合っているか自信ないです。間違えていたらすみません。)

 

物語を振り返ってみると、おさえとは全く境遇や置かれている状況は違うけれど、聡も本当に思っている事は胸の奥に秘めたまま、思いとは裏腹な態度を真奈美にとっていたような気がする。

真奈美の事もう何とも思っていなかったら、来るんじゃなかった!とか散々文句を行った後に、森とは逆方向に行きそうになった真奈美をあっちに門番がいるから!って引き留めたりはしないだろうし、怖い魔物が住む森まで一緒に付いて行ったりもしないと思う。

聡と真奈美も、やっと、お互いの気持ちを受け止めて理解し合えたんだと思う。

「愛はいつも間違う」の間奏部分から、手を繋いだカビ人間とおさえが出てきて最後4人で歌うんだけど、

 

はやく消えて 嫌い 大嫌い あなたのことはもう覚えてない

っていう歌詞がどうしようもなく愛おしく感じて、涙が止まらなかった。(二幕からずっと泣いている。)

そして、抱き合いながら歌うカビ人間とおさえを観て、少し気持ちが救われた。きっと、奇跡の剣で病が治ったら、2人の好きな気持ちは変わらずそのまま続いていただろうか?私がさっき言ったように、お互いの病を理解し尊重し奇病と共に生きる事を選んだら、肌に触れて温もりを感じる事はできただろうか?命に代えられるものなんてもちろん何も無いけれど、2人が触れられるようになったのは、唯一の救いなのかなと思いました。

 

 

•聡と真奈美の結末

 

カビ人間の世界線から元の世界線へ戻る。

老人(市長)が私にも奇跡は起きました。その後何度も何度もセント・スティーブンズ・ディの鐘を聞いても一向に死ねないのです。(※一言一句台詞が合っているか自信ないです。間違えていたらすみません。)と言い、剣に触れる。

その後、元の世界線から横たわって気を失った状態で戻ってきた聡と真奈美を、老人は引きずり、洋館の中へ入る…

 

ここで物語は終わるんだけど、

老人はポーグマホーンによって不死身の身体になってしまった。そして次の奇跡を起こして(ポーグマホーンでまた1000人斬る)、今度は死のうとしている。

奇跡を起こすため森へ迷い込んだ人々を斬り殺しており、真奈美と聡もその1000人のうちの2人なのではないか?と考えているのですが、どうなんだろう?他の方の考察も聞いてみたいです。

そして、老人(市長)にも、カビ人間がおさえの事を大切に思うように、友人とか家族とか、大切に思っている人がきっといたかもしれない。でも、自分の大切な人の死を何度も見届けながら、最後は1人きりになって、終わりのない時間を過ごすのって、『死にたい』と感じてしまうくらいとても辛い事なんだろうなとも思いました。

 

 

 

気がつけば約9000字以上も感想を書いていました!笑

 

素敵な作品に出逢えた事、しめちゃんと閑也くんの初主演の舞台が観れた事、しめちゃんのお芝居が観れた事、心から嬉しく思っています。そして、しめちゃんをはじめとする役者さん皆さんのお芝居や、ケルト音楽の生演奏にエスコートされて、カビ人間の世界に没入して、泣いたり笑ったり心揺さぶられたり、いろんな体験ができて良かったです。

 

しめちゃんが演じる純粋無垢で、直向きで、逞しくて、優しさと愛に溢れているカビ人間が愛おしいです。

 

最後まで感想を読んでくださって、本当にありがとうございました。