ミュージカル「ダブリンの鐘つきカビ人間」をCOOL JAPAN PARK OSAKA WWホールでも観劇しました。
7月上旬に東京国際フォーラムCでも観劇して一度感想を書いたのですが、再び観劇してみて、新たに感じた事や気付いた事があって、それも色褪せないうちに書き留めておきたくて、感想ブログを書くことにしました。
拙い文章になるかと思いますが、読んでいただけたら嬉しいです。
物語の内容等は黒文字、自分の感想や考察は青文字にして書いていきます。
前回感想を書いた時に、物語のあらすじや内容、登場人物について大まかに書いたので、物語を知らない方は、前回の記事を読んでいただけたら幸いです。
•「その分見えないものが見える」
カビ人間がおさえの罪を庇い、牢屋で拷問を受け、ボロボロの状態で解放された後、ジジイ(おさえの父)と出会い、2人きりで話す場面。
「ひと雨きそうだな。」と空を見上げるジジイに、カビ人間は「凄いな…目が見えないのに。」と言う。
その言葉に対してジジイは、「その分見えないものが見える。」と答える。
この場面で
•ジジイとカビ人間は奇病が流行る前はいつも一緒に居た事
•カビ人間は奇病のせいで、奇病に罹る前の記憶がどんどん失われている事
•ジジイは悪い奴に騙されて薬を飲んだせいで、盲目になってしまった事
が明らかになる。
さらに、奇病に罹る前の記憶がほとんど無いカビ人間は、自分がジジイを騙して薬を飲ませたのかもしれないと思い、「その悪い奴って…僕?」とジジイに聞くが、ジジイは「もっともっと醜い奴だったよ。」と答える。
初めて舞台を観た時から「その分(目が見えない分)見えないものが見える。」というジジイの台詞が印象的でした。
そして、東京公演を観終わってから"見えないものが見える"って何だろう?と考えていたのですが、再び観劇してみて、ジジイの優しさと寛容さは、「きっと"見えないものが見える"からこそあるんじゃないかな。」というふうに思いました。
人にはいろんな側面がある。
ジジイだったら、おさえのお父さんという側面があったり、カビ人間の古い友人という側面があったり、ダブリンの一市民という側面があったり。私だったら、職場に行けば看護師という側面があったり、実家に帰れば娘という側面があったり。
そして、ダブリンの市民から見ればジジイは"奇病に罹った一市民"なのかもしれないけれど、おさえから見ればジジイは"かけがえのない家族の一人"だ。
生きていると正直嫌いだなと思う人、相容れないなと思う人に必ず出会う。
でも、私にとって嫌いな人でも、他の誰かにとっては、その嫌いな人が、かけがえのない家族だったり恋人だったり、大切な存在なのかもしれない。私はその人と「馬が合わないな。」と感じていても、他の誰かにとっては「その人がいないと生きていけない。」と、感じさせるような尊い空間や時間があるのかもしれない。
"見えないものが見える"
ジジイにはもしかしたら、相手を差別したり、傷つけたりすることで、相手だけじゃなくて、相手の家族や恋人など"相手の向こう側にいる人"までも、心を痛め悲しい思いをするかもしれない。
"相手だけじゃなくて相手の向こう側"まで見えているのではないかなと思いました。
そして、「盲目にさせてしまったのは自分なのか?」というカビ人間の問いに、ジジイは「もっともっと醜い奴だったよ。」と答える台詞もありますが、
ジジイは、国籍や人種、経歴、奇病に罹っているとか罹っていないとか、そういった枠組みを取り払って、「その人をただただ"その人"として見ているのかもしれないな。」とも思いました。
だからカビ人間の事も、自分を盲目にさせた人なのかもしれないけれど、今は、娘を命懸けで助けてくれて、鐘つきの仕事を一生懸命頑張っている人だと考えているのかなって。
でも…もし自分が誰かに騙されて盲目になってしまったら…"自分を騙した人の向こう側にいる人"の事まで考える心の余裕は無いかもしれない。相手がどんなに反省していたとしても、自分を盲目にさせた事を許して、今の相手の姿だけを見る事はできないかもしれない。
そして、いじめとか虐待とかSNSでの誹謗中傷とか、悲しいニュースは毎日絶えずあるし、今も戦争をしている国がある。
ジジイのように、偏見や差別を持たず、"相手だけじゃなくて相手の向こう側"まで見えるくらい優しさや寛容さを持つには、どうしたら良いんだろう。どう努力すれば持てるようになれるのだろう。考えれば考えるほど難しいです。
さらに、「ジジイを盲目にさせた犯人はカビ人間かもしれない」という設定で、話を進めてきましたが、犯人が誰なのか明らかにはなっていないのと、盲目にさせた犯人の動機もわからないのでそれも知りたいです。
•ピクニックに行きたくなるような大雨
2人がお互いの病を理解し合って心を通わし、少し遠くなっていたおさえの笑顔が戻ってくる場面。
私はこの場面が一番好きです。
大切に思う人が"1分でも1秒でも「幸せだ。」って思える時間を作れるって、最高に尊い事だなと感じて、大阪公演でも涙が止まりませんでした。
そして、カビ人間の中で、鐘つきの仕事以外に、おさえが1秒でも「幸せだ。」と思える時間を作る事も、"生きる意味"の一つになったんじゃないかなとも思いました。
この場面でカビ人間がおさえに対して、「僕嬉しかったんだ。君に"素敵だ"って言われて。僕本当に嬉しかったんだ。大丈夫だよ、まだ嬉しいままだから。」って言う台詞があるんだけど、おさえがかけてくれた"素敵だ"という言葉で、カビ人間はきっと心が救われたんだろうなと感じました。
以前の東京公演の感想でも書いたのですが、おさえと出逢う前のカビ人間は「市民にお昼の時間を知らせるための鐘を鳴らす」という自分の"生きる意味"を見つけて、前向きに生きようとしながらも、心のどこかでは「自分は醜い姿だから。」と思っている自分も居たと思うんです。
おさえは、教会の場面では本心としてこの言葉を言っていなかったけれど、あの時のカビ人間にとっては、何ものにも代え難い、今も色褪せずあの時のその色のままで、この言葉が心に残っているんじゃないかなって。
自分が後ろ向きになりそうな時、今までは「自分は醜い姿だから。」と思っているダメな自分を殴り殺して、その度に踏ん張るような形で鼓舞していたけれど、おさえと出逢ってからは、きっとおさえがくれたこの言葉を思い出して、前向きになれていたんじゃないのかなと思いました。
「まるで私たちは霧の中 あなたはひとりきりで何を夢見ているの?」
「声に出しても 言葉なんて君に(あなたに)届かない あなたのいない一瞬 雨の中」
「ピクニックに行きたくなるような大雨」の聡と真奈美のパートの歌詞なんだけど、カビ人間とおさえのパートとはとても対照的に感じました。
同じ大雨の中でも、カビ人間とおさえは大雨すら楽しんでいる感じがして。
大雨の中、2人きりで雨宿りしながら話したあの時間は、いつまでも2人だけの大切な思い出で、「こんにちは。」って別れて1人きりになった後も、「大雨なんて関係ない!」っと思えるくらい幸せな気持ちでいっぱいだったんだろうなと思います。
一方聡と真奈美は、カビ人間とおさえと同じ大雨の中でも、冷たくて強い大雨に打たれて、憂鬱で寂しい感じがして。
5年半一緒にいた分、お互いの嫌な部分が嫌でも目につくようになって、気がついたら些細な事で喧嘩するようになって、2人とも優しさや思いやり、温もりをどこかに置き去りにしてしまっているように思いました。
そして、些細な喧嘩がどんどん積み重なっていって「どうせ言ったところでわかってもらえない。」「また言い合いになる。」と、いつからか心を閉ざし、声に出しても言葉が心に届かなくなり、お互いが何を考えているのかとか、何を思っているのかとか、見えなくなってしまったのかなと思いました。
•戦士が神父と神父の手下を殺す場面
東京公演で観た時と大阪公演で観た時と、感じ方が1番変わった場面かもしれないです。
東京公演で観た時の戦士のイメージは、「無鉄砲な人だな。」というイメージだったんですが、再び観劇してこの場面を見て、戦士の言葉や行動の根底には常に、おさえへの愛情や優しさ、一途な思いが強く流れているような気がして、そう考えた途端、正義や愛のために他の誰かを傷つける戦士を、どういう気持ちで観れば良いのか、心の中がグチャグチャになってわからなくなりました。
森の中、真奈美や聡と出会った時も、賢者と出会った時も、戦士はむやみに斬り殺したり、傷つけたりしなかったから。
本当の意味での正義って何だろう?本当の意味での優しさって何だろう?って。
戦士は、「聡と真奈美は邪教団の密使で、自分達の私利私欲のためポーグマホーンを手に入れようとしている。」と神父の流した嘘の情報に踊らされて、結局神父とその手下2人を殺めてしまったわけだけど、"誰かの言う正しさに流されて誰かを傷つける"って、今のこの世の中でも沢山起こっている事だなと思いました。
•奇跡なんてクソくらえ
『死んじまえ、カビ人間。
地獄に堕ちろ、カビ人間。
お前は醜い悪魔の僕。
お前を迎え入れる世界など、この世の何処にもない。
皆はお前を素晴らしい男だと言う。
皆はお前に勝る者はいないと言う。
皆がお前を慕い、皆がお前を愛する。
だが、よく聞くがいい、カビ人間。
私は...この私だけは…お前を心から憎む。
私だけはお前が大嫌いなの。
奇跡なんてクソくらえ、ポーグマホーン。』
「市民の言う、"カビ人間が火をつけた犯人だ"という正しさや圧力に流されず、振り回されない。こんな事あってはならない。
自分の言葉も、感情も、この病も、全部全部他の誰のものでもない。自分だけのものだ。」
という、おさえの矜持と生き様が真っ直ぐ伝わってきて、カビ人間への混じり気のない一途な思いが溢れていて、胸が熱くなって、涙が止まらなかったです。
カビ人間もおさえも、最期の最期まで自分らしく、そして、自分を愛し隣にいる大切な人を愛し、街中の人々の幸せを本気で願っていたんだと思います。
•愛はいつも間違う
「本当のことを教えて 霧の中探すように 本当のことは教えない いつだって 言葉は雨」
ここの歌詞が、東京公演の時からとても印象に残っていて。
東京公演に入った直後は、"言葉は雨"の意味がはっきりとわからなかったのですが、再び観劇して、
聡と真奈美は本当の事は胸の奥に秘めたまま、思いとは裏腹な態度を取って、喧嘩して、お互い投げつけた言葉は、曇っていて本音の見えない、冷たく寂しく感じる言葉だったから、"言葉は雨"なのかなというふうに考えました。
「はやく消えて 嫌い 大嫌い 」
「あなたのことはもう覚えてない 覚えてない 覚えてない 今覚えていない」
ここでカビ人間とおさえは抱き合いながら歌うのですが、
言葉には大きな力もあるけれど、"言葉の限界"もあるのかなって感じました。
誰かがただそばにいてくれて、手を握ってくれたり、抱きしめてくれたりするだけで、無数の言葉の代わりになる。"言葉の限界"を超えるパワーがあると感じました。
東京公演の感想でも書きましたが、命に代えられるものはもちろん何も無いけれど、2人が触れられるようになったのは、唯一の救いなのかなと思いました。
•聡と真奈美の結末
東京公演の感想を読んでくださった方が、コメントで「洋服に血飛沫がついてボーグマホーンに2本ラインが引かれます。」と教えてくださり、注目して観たのですが、確かに洋服に血液が付いていて、ポーグマホーンに2本ラインが引かれていました。
やはり、老人(市長)はポーグマホーンによって不死身の身体になってしまって、今度は次の奇跡を起こして(ポーグマホーンでまた1000人斬る)、死のうとしている。
奇跡を起こすため森へ迷い込んだ人々を斬り殺していて、真奈美と聡もその1000人のうちの2人で、老人(市長)によって殺されたのかな?と思っています。真実が気になります。
東京公演と大阪公演とで、お芝居の間合いや、台詞の言い回し、歌い方、アドリブなど違う感じがして「同じ公演だからといって、今日観た公演と同じ瞬間が訪れることは二度と無い。」「替えのきかない特別な空間なんだ。」と凄く感動して、舞台がもっと大好きになりました。
そして何より、物語も、役者さん一人一人のお芝居や歌も、ケルト音楽も全部全部素晴らしくて、いつか絶対に再演して欲しいです!
サントラとDVDも欲しいです!
最後まで拙い感想を読んでくださって、本当にありがとうございました。